晴れ+あぢぃい

3月半ばに羽田で「またね」と言った以来。
互いに出張の予定も遊びの予定もなく、ただ時間が流れていた、、、
しかもこの一月はほぼ音信不通。
が、数日前の電話で急遽「会う機会」が出来上がり。

数ヶ月ぶりの再会、といっても3度目の出会い。
その二日前に<お父さん>に会うときは、「今日、食事でもしようか?」ときたときには、とっても“ウキウキ感”があったのだが、「今週末会おう」といわれた時は、アタマから飛んでいたことだったからか、、、はたまた、色々“考えすぎた”からか、または、十年来の友達にこないだ会ったからか、、、いわゆる“ウキウキ感”というものを得られず、、、何なのだ・・・と思っていた。

初めて会った時から、その前、電話で話したときから・・・
とても、今まで関係が無かったとは思えないくらいに気があって、、、
しかも、珍しく歳が近いという・・・

3度目は、先週も会ったかのような普通な感じで始まり、「んじゃ、また来週」位の感じで終わった。。。
あの感覚はフシギでならない。
二年前、ロラン・バルトの「恋愛のディスクール・断章」の一節を思い出していたが、、、
++http://d.hatena.ne.jp/nageuse/20050425++
ロラン・バルト「恋愛のディスクール・断章」
「アトポス:愛する人は、恋愛主体によって「アトポス」とみなされる。つまり、分類不可能なもの、測りがたい独自性をもつもの、である。」
「わたしを魅惑する他者はアトポスである。わたしはその人を分類することができない。それがまさしく「唯一者」であり、私の特別な欲望に奇跡的なまでに呼応する特別の「イメージ」であるからだ。(中略)私の欲望は分類が可能だということになる。私がこれまで愛してきた存在にはすべて共通の特徴があるのだろうか。」(p.54-55)
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<分類>を考えるのであれば、、、人的モノではなく、<鏡>という感じがする。。。
考えることや悩んでいること、人への接し方などなど、、、自分に近いものを感じる。モチロン異なる部分も多々見出されるのではあるが。
また、似てはいるが、「少し先」的な部分も有している。会社を辞めているとか地元に暮らしているとか・・・。そういう点から、自分の考えなんかを反射させて再考するのに“とてもよい対象”(言葉にするととても嫌な響きだが)なのだろうか、、、
近くにいて欲しいと思う反面、遠くにいても苦にならないところもあり。。。
そんなことを考えていると、、、「分類したいのか?!」という自問も生じてくる。

フシギな存在。

一夜明け、「また違った感覚で会って、みてみよう」と見送りに行こう!と思ったが、連絡するのが遅すぎた、、、
「着いた頃には、出発だわ・・・」と言われ、「じゃ、気をつけて」というに留まった。

次、「会う機会」はいつ、どのような形になるのやら。。。

<価値観を伝える、ということをしていく>
そういう風に、自分の中で整理できたのならば、良かった。